「ニューワールドオーダー」新世界秩序(1)

民族・宗教の世界・特集

第二次世界大戦末期から40年以上続いた冷戦に終止符

平成元年こと1989年、のっけから昭和天皇崩御するわソ連がアフガン撤退するわポーランドで東欧革命始まるわ中国で六四天安門事件起きるわベルリンの壁崩壊するわマルタ会談で冷戦終結するわパパブッシュ政権がパナマ侵攻に踏み切るわルーマニアでチャウシェスク公開処刑されるわと激動すぎる
— 酔鏡仙 (@suikyosen) April 16, 2019

冷戦
冷戦(れいせん、英: Cold War、露: Холодная война)もしくは冷たい戦争(つめたいせんそう)は、第二次世界大戦後の世界を二分したアメリカを盟主とする資本主義・自由主義陣営と、ソ連を盟主とする共産主義・社会主義陣営との対立構造。 語源 1945年から1989年までの44年間続き、アメリカ合衆国とソビエト連邦が軍事力で直接戦う戦争は起こらなかったので、軍事力(火力)で直接戦う「熱戦」「熱い戦争」に対して、「冷戦」「冷たい戦争」と呼ばれた。「冷戦」という語は、ジョージ・オーウェルがジェームズ・バーナムの理論を評した時に使っており、後にバーナード・バルークも使い、アメリカの政治評論家ウォルター・リップマンが1947年に上梓した著書の書名『冷戦―合衆国の外交政策研究』に使用されたことから、その表現が世界的に広まった。 (Wikipedia:冷戦)

昭和天皇崩御

昭和天皇崩御が伝えられた日は、富士山に山頂を隠す大きな笠雲があった。令和天皇即位礼正殿の儀の日は、雨上がりの虹があった。

政教分離は終戦後財産の一つ。それでも日本の文化や歴史は一面のみで論じられない。日本だけじゃないけど。

#日本は何かとつながってる⁉︎ #天皇 #政教分離

— gaga31(@happy61230)Sat Oct 26 00:04:28 +0000 2019

昭和天皇
昭和天皇(しょうわてんのう、1901年〈明治34年〉4月29日 – 1989年〈昭和64年〉1月7日)は、日本の第124代天皇(在位:1926年(大正15年)12月25日 – 1989年(昭和64年)1月7日)。 諱は裕仁(ひろひと)。幼少時の称号は迪宮(みちのみや)、お印は若竹(わかたけ)。 歴代天皇の中で(神話上の天皇を除くと)在位期間が最も長く(約62年)、最も長寿(宝算87)だった。 大日本帝国憲法の下では「國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬」する立憲君主制における天皇として、終戦の国策決定などに深く関与した。1947年(昭和22年)に施行された日本国憲法の下では「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」である天皇として「国政に関する権能を有しない」ものとされた。しかし占領期にはGHQ総司令官ダグラス・マッカーサーとの会見などにより、独自の政治的影響力を保持した。主権回復後には、象徴天皇として皇室外交を行った。 また、天皇としての公務の傍らヒドロ虫(ヒドロゾア)・変形菌(粘菌)などを、生物学研究者として研究した。 (Wikipedia:昭和天皇)

阪神大震災までは、まだ社会は明るいものがあったと思う。
震災以後文化は80年代の延長でも、生活が2年毎に段違いに悪くなっていった。
2000年代は見かけだけリッチな気分になる言葉が流行って、景気回復を予感だけさせて、
見事に期待を裏切った。
多くの人々がハケンになれてもセレブにはなれなかった。
デザートをスイーツと言い出したのは、現実の辛酸苦渋の裏返しで、
菓子を食う時くらい甘い夢見て下さいという事か。
期待外れの2000年代。80年代再来はならず。90年代をより悪くしただけ。
外観ばかり90年代より飾って、豊かさの実態が全くない時代だった。

引用元: ・昭和天皇崩御 【激動の昭和終わる・・】

ソ連のアフガン撤退

ムジャーヒディーン
ムジャーヒディーン(アラビア語: مجاهدين‎ mujāhidīn)は、アラビア語で「ジハードを遂行する者」を意味するムジャーヒド(アラビア語: مجاهد‎ mujāhid)の複数形。一般的には、イスラム教の大義にのっとったジハードに参加する戦士たちのことを指す。最近はイスラム教による連携した民兵を指すことが多い。 歴史的には、個々のムスリム(イスラーム教徒)たちがジハードに対する意識を常に持っていたわけではなく、むしろ近代に至ってイスラム世界に対する侵略に対抗する民衆の抵抗運動において、ムジャーヒド意識が発揮されてきた。19世紀にインドで起こった対英ジハード「ムジャーヒディーン運動」は、その代表的なものである。 中世 ムワッヒド朝 サラーフッディーン アフマド・イブン・イブリヒム・アル=ガジー ティムール Ulubatlı Hasan近代スレイマン1世 バーブル アウラングゼーブ Sheikh Mansur Abdul-Aziz bin Muhammad19世紀 ウスマン・ダン・フォディオ ジャハーンギール・ホージャ Muhammad Ahmad メフメト5世 シャミール 現代 現代のムジャヒディーンによる闘争・紛争 Bosnian mujahideenおよびボスニア・ヘルツェゴビナ紛争 カシミール紛争 Iraqi insurgency Insurgency in the North Caucasus Arab Mujahideen in Chechnya Moro insurgency in the Philippines ソマリア内戦 ハラカト・アル・シャバブ・ムジャーヒディーン アフガニスタン紛争 アフガニスタンで1978年にアフガニスタン人民民主党による共産政権が成立すると、各地で組織された反政府ゲリラが蜂起した。 (Wikipedia:ムジャーヒディーン)

東欧革命

東欧革命
東欧革命(とうおうかくめい)は、1989年にソビエト連邦(ソ連)の衛星国であった東ヨーロッパ諸国で共産主義国が連続的に倒された革命である。1989年革命と呼ばれる事もある。 ソ連が、経済危機に伴う国力の低下によって東ヨーロッパでの影響力を弱めたことを背景に、1980年代末市民や労働者によって共産主義政権が次々と倒された一連の民主化革命。 1989年11月のベルリンの壁の崩壊、12月のルーマニアの政変、同月のチェコスロバキア共産党の一党支配の崩壊、90年9月のポーランドの非共産党系内閣の誕生などをいう。 範囲 ポーランド(6月18日)とハンガリー(10月23日)における非共産党国家の成立に始まり、11月9日のベルリンの壁崩壊と11月17日のチェコスロヴァキアのビロード革命を経て、12月25日のルーマニアのチャウシェスク政権の崩壊に至るまでとする、「1989年に起こった革命」という狭義的な捉え方である。 (Wikipedia:東欧革命)

天安門事件

轢き殺された後のグッチャグチャの真っ赤な遺体写真の衝撃といったら…
もう30年になるんだねぇ

引用元: ・【天安門事件から30年】20世紀の決定的瞬間、天安門の「戦車男」撮影した米写真家死去 64歳

天安門事件
天安門事件(てんあんもんじけん)とは、中華人民共和国北京市の天安門広場で起こった事件の総称である。1976年1月と1989年に起こっているが、日本においては、ただ単に「天安門事件」といった場合は第二次のものを指すことがほとんどである。 五四運動(1919年5月4日) – 中華民国時の北京から全国に広がった反日、反帝国主義を掲げる大衆運動。 四五天安門事件(第一次天安門事件(1976年4月5日) – 天安門広場に捧げられた花の撤去に怒った民衆と軍や警察との衝突。 六四天安門事件(第二次天安門事件(1989年6月4日) – 民主化を求めるデモ隊と軍や警察との衝突。多数の死傷者を出した。 天安門焼身自殺事件(2001年1月23日) – 中国北京の天安門広場で起きた焼身自殺事件。 天安門広場自動車突入事件。 (Wikipedia:天安門事件)

ベルリンの壁崩

ベルリンの壁崩壊
ベルリンの壁崩壊(ベルリンのかべほうかい)は、1989年11月9日に東ドイツ政府が東ドイツ市民に対して、旅行許可書発行の大幅な規制緩和を「事実上の旅行自由化」と受け取れる表現で発表したことをきっかけに、ベルリンの壁の国境ゲートが開放され、翌11月10日には東西ベルリン市民によって実際に壁の破壊が開始された一連の事件のこと。略称として壁崩壊(ドイツ語: Mauerfall)という。東欧革命を象徴する事件として有名である。 前史 東ドイツの停滞 第二次世界大戦後の、ドイツのソビエト連邦とイギリス、フランス、アメリカ合衆国による東西分割占領によって生まれた分断国家の東ドイツは、ソ連からの大きな経済援助や西ドイツからの借款を受けたことにも助けられ、社会主義国の中では最も経済発展を遂げ「社会主義の優等生」と呼ばれた。 (Wikipedia:ベルリンの壁崩壊)

マルタ会談

マルタ会談
1989年のマルタ会談(マルタかいだん、英: Malta Summit)とは、1989年12月2日から12月3日にかけて、地中海のマルタで行われたアメリカ合衆国とソビエト社会主義共和国連邦両国の首脳会談である。これをもって、44年間続いた東西冷戦は終結した。 東欧革命やベルリンの壁崩壊を受けて、アメリカ合衆国大統領ジョージ・H・W・ブッシュとソビエト連邦最高会議議長兼ソビエト連邦共産党書記長ミハイル・ゴルバチョフによる首脳会談で、第二次世界大戦末期のヤルタ会談に始まった米ソ冷戦の終結を宣言した。これを標語的に「ヤルタからマルタへ("From Yalta to Malta")」という。マルタ島沖のソ連客船マクシム・ゴーリキー内で行われた。 この会談には、ソ連側からはシェワルナゼ外務大臣、アメリカ側からはベイカー国務長官及びスコウクロフト国家安全保障問題担当大統領補佐官、ライス国家安全保障会議東欧ソ連部長、マットロック駐ソ連アメリカ大使などが同席している。 (Wikipedia:マルタ会談)

パナマ侵攻

まあ、アメリカがこの運河を手放すことは
ありえないよね。軍事的意味を考えればね。

引用元: ・【ブッシュ】パナマ侵攻【小沢、金丸】

パナマ侵攻
パナマ侵攻(パナマしんこう、英語: Invasion of Panama)は、1989年から1990年にかけてアメリカ合衆国が中央アメリカのパナマに軍事侵攻した事件である。 経緯 ノリエガ独裁体制 1983年以来、マヌエル・ノリエガ最高司令官(将軍)は、パナマにおける事実上の最高権力者となっていた。しかしノリエガ体制のパナマは、非民主的な政治体制が原因で中南米の中でも孤立していただけでなく、中南米における麻薬ルートの温床となっているとされていた。ノリエガは、冷戦下の1966年からアメリカ中央情報局(CIA)のために働いていたことも明らかになっている。ノリエガはブッシュ大統領がCIA長官時代にその手先となり、キューバのフィデル・カストロ政権やニカラグアのサンディニスタ政権など、中南米やカリブ海の左派政権の攪乱に協力していた。アメリカの麻薬対策にも協力していると考えられており、1978年から1987年まではアメリカの麻薬取締局(DEA)から毎年感謝状が贈られていた。 (Wikipedia:パナマ侵攻)

チャウシェスク公開処刑

ルーマニア革命 (1989年)
ルーマニア革命(ルーマニアかくめい、ルーマニア語: Revoluţia română)は、1989年12月、ルーマニア社会主義共和国のニコラエ・チャウシェスク政権が打倒され、現在のルーマニアが樹立された一連の出来事である。反チャウシェスク派によるクーデターと見ることができるためルーマニア政変とも言われる。 1989年、東ヨーロッパ各国の共産党政府が相次いで打倒された東欧革命において唯一、武力により共産党政権が打倒された。 大統領のニコラエ・チャウシェスクが命じた民主化デモの武力鎮圧に反対した国防相のワシーリ・ミリャの急死(銃撃による死亡)をきっかけに、国軍がチャウシェスクに反旗を翻して民主化勢力を援護し、治安部隊との武力衝突に陥った。革命軍は1週間で全土を制圧してチャウシェスクを処刑し、非共産党政権を樹立した。 前史 1945年5月8日の敗戦によってルーマニア王国が崩壊し、ソビエト連邦軍の占領下で、ルーマニア共産党による一党独裁国家であるルーマニア社会主義共和国が成立した。 (Wikipedia:ルーマニア革命 (1989年))

冷戦終焉でニューワールドオーダー(新世界秩序)を高らかに

全体主義ディストピア

『1984』ジョージ・オーウェル

1984年 (小説)
『1984年』(Nineteen Eighty-Four)は、イギリスの作家ジョージ・オーウェルの小説。1949年刊行。単に『1984』とも。 トマス・モア『ユートピア』、スウィフト『ガリヴァー旅行記』、ザミャーチン『われら』、ハクスリー『すばらしい新世界』などのディストピア(反ユートピア)小説の系譜を引く作品で、スターリン体制下のソ連を連想させる全体主義国家によって分割統治された近未来世界の恐怖を描いている。なお、著者などは言及していないが「1984年」という年号は、本作が執筆された1948年の4と8を入れ替えたアナグラム説などがある(後述)。これによって、当時の世界情勢そのものへの危惧を暗に示したものとなっている。 出版当初から冷戦下の英米で爆発的に売れ、同じ著者の『動物農場』やケストラーの『真昼の暗黒』などとともに反全体主義、反集産主義のバイブルとなった。冷戦時の共産主義体制を批判した反共主義者も、また政府による監視や検閲や権威主義を批判する西側諸国の反体制派も、好んでこの小説を引用する。 (Wikipedia:1984年 (小説))

現実の国際社会は混乱と戦争ニューワールドディスオーダー(新世界無秩序)

アメリカ同時多発テロ事件
アメリカ同時多発テロ事件(アメリカどうじたはつテロじけん)は、2001年9月11日にアメリカ合衆国内で同時多発的に発生した、航空機等を用いた4つのテロ事件の総称である。 航空機が使用された史上最大規模のテロ事件であり、全世界に衝撃を与えた。その後、アメリカ軍は報復としてアフガニスタン紛争、イラク戦争を行った。また、航空機のマンハッタン高層ビルへの大規模衝突事件としては、1945年のエンパイア・ステート・ビルディングへのB-25激突事故以来となった。 日本では、この事件の略称として「同時多発テロ」、「9・11テロ(きゅういちいち—)」、「9・11事件(きゅういちいち—)」などと呼ぶ。ただし、2005年にロンドンでロンドン同時爆破事件が発生したので、2001年の事件を「アメリカ同時多発テロ事件」、「9・11テロ」と呼ぶことが増えた。広辞苑には、「九-一一事件(きゅういちいち-じけん)」と記載されている。 アメリカ合衆国やイギリスなどの英語メディアでは、この事件を September 11 attacks(9月11日攻撃)、September 11、September 11th、9/11 (nine eleven)、などと呼ぶ。 (Wikipedia:アメリカ同時多発テロ事件)

アメリカ同時多発テロ事件陰謀説
アメリカ同時多発テロ事件陰謀説(アメリカどうじたはつテロじけんいんぼうせつ)では、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件が自作自演によって引き起こされたとするいくつかの説について解説する。 9.11テロに関する公式な見解は、「ウサーマ・ビン=ラーディン(オサマ・ビンラディンとも)を筆頭とするアルカーイダ(アルカイダとも)が引き起こしたテロで、重要建造物(政府関連施設もしくはランドマーク)を標的にハイジャックした旅客機を用いた自爆テロであり、その方法はアメリカ政府を始め誰もが予想もつかなかった」というものである。これに対してテロをアメリカ政府があらかじめ知っていたが無視したとする説、政府自身による自作自演であるとする説が唱えられている。 また、本事件の公式見解を支持する場合であっても、事件時の不手際などを政府や軍が隠蔽しているのではないかという疑惑も、広義の陰謀説と呼べる。 このような説が唱えられる背景には、このテロが低迷していたブッシュ政権に高い支持率を与え、アフガニスタン戦争とイラク戦争のきっかけとなり、それが軍需産業へ利益をもたらしたという経緯がある。 (Wikipedia:アメリカ同時多発テロ事件陰謀説)

イスラム国指導者死亡

ISIL
ISIL(アイシル、英語: Islamic State in Iraq and the Levant:イラク・レバントのイスラム国(イスラムこく))とは、IS(アイエス、英語: Islamic State: イスラム国)と名乗り、イラク・シリア間にまたがって活動するイスラム過激派組織である。IS やイスラム国 、ISIS (アイシス、英語: Islamic State in Iraq and Syria:イラク・シャームのイスラム国)、ダーイシュとも呼称される(呼称についての詳細は後節の「#名称・表記」を参照)。 ISILはアブー・バクル・アル=バグダーディー指揮の下イスラム国家樹立運動を行うアルカイダ系(現在は絶縁状態)イスラム過激派組織である。イラクとシリア両国の国境付近を中心とし両国の相当部分を武力制圧し、国家樹立を宣言し、ラッカを首都と宣言している。後述するように、外交関係の相手として国家の承認を行った国家は無い。 報道により伝えられる知見によれば、活動家たちは、ISILが大規模で組織的に活動していることに感嘆していると言い、さらに、ISILに批判的な活動家までが、ISILがわずか1年足らずで近代国家のような構造を作り上げて来たことに言及する。 (Wikipedia:ISIL)

恒久平和を信じたい